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2002年1月 簡単に言うと、静止画を使ってのエンターテインメントの方法を模索しています。絵コンテ・アーティストは、脚本形式か簡単なアウトラインで企画を受け、映像シーンをイメージし、絵を描いて可能性を探り、脚本を書くときや理論的に予測できなかった問題を明らかにしていきます。その後、ストーリー・ミーティングという会議で、監督や他の絵コンテ・アーティストに見せるために「シーケンス」と呼ばれるプレゼンテーションを作成します。彼らの目の前で、アーティストは絵コンテで演技を見せ、ストーリーを語って、素材を最も良い方法で結びつけようとするのです。この発表が終わると、次はフィードバックとブレインストーミングの時間になります。可能性を選択し、いくつかの選択肢が排除され、絵コンテ・アーティストが次の段階に進めるための新しい選択肢が見えてきます。そのすべてがうまくいった場合に、そのシーンを再現するための明確な指示が与えられ、次回に向けて絵コンテを描く作業に戻るわけです。 そのシーンがうまくいくまで何度でも修正します。何度修正したら必ず終わるということはありません。1回でうまくいくこともあれば、十数回以上修正しなければならない場合もあります。 私にとっては、アドリブの授業を受けたことが大きな力になっています。その授業では、与えられた指示にしたがって、それを実現していかなくてはなりません。どのような指示が与えられても、その指示に100%従い、その結果が最良かどうかを判断し進めていくのです。ですから、その経験がこの作業にずいぶん役立っています。「良かったよ、次へ行こうか。もっと掘り下げてみよう」という感じですね。 声優は、いつも楽しんでやっています。高校時代、モンティ・パイソンやチーチ&チョンの映画、それから「ファイアサイン・シアター」のお決まりのシーンを友人と一緒に覚えたものです。私たちは、学校まで歩きながらワーナー・ブラザースのアニメーションのキャラクターを真似したものです。「やぁ、あいつはどっちへ行った、ジョージ、どっちへ行ったんだよ」ってね。私にとっては、アドリブの授業は友人と騒いだり遊んだりすることの延長にあったのです。ですから、質問には“イエス”と答えるべきでしょうね。アドリブの授業は大きな助けになっています。 物事には必ず2つの側面があります。何かを繰り返し磨き上げてより良くしていくことは喜びでもありますが、同時に非常に厳しい作業でもあります。一番辛いのは、夜の11時半に何枚もスケッチを描いて、そんなにも長い時間働いた後で、その「シーケンス」を面白くやってみせなければならないことですね。9回、10回と繰り返しても常に新鮮で、できるだけ人を楽しませる良いものにしていくことは難しいですね。 実写映画の制作で目にしたことがあるのですが、監督に代わってプロダクション・イラストレーターが前もってカメラのアングルや搬送方法などの問題を解決しようとしていました。私たちの手法はそれと異なり、登場人物を重視しています。演技をどのようにするのかを決める最初の一歩について、あれこれと考えをめぐらせるのです。 そうです、それがディズニーの絵コンテ作成の伝統なのです。以前は、ストーリーのほとんど100%をスケッチで作っていました。絵コンテの中には、新たな可能性を示す何かが含まれているのです。具体的なものも含まれています。物語を活字で読んだときに、すべての人の想像力が幅広い可能性に向けて開かれています。10人の会議メンバーが、脚本を読んでOKを出しても、次にそれを絵に描くことによってそのシーンで今まで見えなかった問題点やメリットを明らかにすることができるのです。 カリフォルニア芸術大学に通っていたのですが、私が新入生のとき、ジョン・ラセター監督は四年生でした。ピクサーの監督ブラッド・バードとジョン・ラセターが、キャラクター・アニメーションの最初の授業に出ていました。カリフォルニア芸術大学で2年間過ごした後、ストーリー制作の世界に飛び込んだのです。私が学生時代に作った映画を、ディズニーは気に入り、面白いと思ってくれました。私を採用したディズニーは、私をある部屋へ連れていき「おもしろいTV番組を制作しろ」と言いました。初めはトレーニングを受けると思っていた私は、むしろ「えっ?」という感じでしたね。それから試行錯誤の中で多くのことを学びました。ディズニーに入ってから最初の1年間でいろいろな作品を手がけましたが、中には完成までいたらなかったものもあります。 私がディズニーを辞めたのは、「ブレイブ・リトル・トースター」という映画の制作に加わるためでした。その後ディズニーに戻り、「ロジャー・ラビット」、「リトル・マーメイド」、「オリバー〜ニューヨーク子猫ものがたり」、「美女と野獣」、「ビアンカの大冒険〜ゴールデンイーグルを救え!」の制作に携わりました。3度目の転職のときにはサンフランシスコ郊外に移って「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」を制作しました。その間ジョン(ラセター)とは常に連絡をとっていました。その当時のピクサーは、非常に小さな会社でした。私は、「ジョン、いつになったら長編を撮るんだ。早くそいつをやりたいんだ」といつも言っていました。「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」の後に、「トイ・ストーリー」の制作に参加しました。その後、私はピクサーを辞めて、「ジャイアント・ピーチ」の制作に加わりましたが、最終的にはピクサーに落ち着きました。妻と子どものことを考え「行ったり来たり」を止めたのです。 小学生のときには、コンテストで賞を取ったことがあります。私はそれほど勉強のできる生徒ではありませんでしたが、アートは得意でしたから、その道に進もうと決心したのです。その後、アニメーションにつながるものすべてに関心を注ぐようになりました。同じように、手品にも夢中になりました。映画や読書、スケッチや物語を書くことも好きでした。 「五次元世界のぼうけん」という本ですね。これは、課題図書とかではなく、私が初めて「読書って面白い」と思って読んだ本なのです。このときまで、私は「みんな無理矢理ぼくに文章を読ませようとしている」と思っていたのです。この本を読むまで、何のために読書するのかがわかりませんでした。この後「マッドマガジン」に出会い、「これは今までに出会った中で最高のものだ」と思いました。破壊的で皮肉の効いた漫画が好きでしたね。 私の両親は、私が興味を持っていることは何でも応援してくれました。母は、絵筆や絵の具を買いにKマートに連れて行ってくれました。私はいつも、自分のアートへの興味を追い続けていました。高校2年生のときは、M.C. エッシャーに傾倒しました。こんな絵をどうすれば描けるのかを知りたいと思っていましたが、美術の先生が「それはリソグラフィだよ」と教えてくれました。リソグラフィが何なのかを知らなかったので、短大の版画製作の授業に登録しました。父は、土曜日の朝になるとその授業に私を車に乗せて連れて行ってくれました。ほとんどの生徒は50才を超えていましたね。なかなか珍しい体験だったと思います。私は、みんながエッチングや石版印刷をするのを眺めていました。(先生は、私にリノリウム版画から始めさせたのです。) 人に感じてもらえるものを描くようにすることです。自分自身が感じるものを描き、描いたものを通じて他の人々に同じように感じてもらうように表現するのです。ピクサーでは、キャラクターを描くとき、それと同じことをしなければなりません。あなたが表現しようとしているものが、個々の登場人物でも、周囲の雰囲気でも同じことです。どのように感じるか。他の人に何を連想させるか。面白いのか、悲しいのか、美しいのか、いらいらするのか、閉所恐怖感があるか、元気がでるか。表現力に富んだスケッチ、すなわち生きているように感じられるスケッチを描いてください。 当社の映画、アニメーションの詳細について、または業界への就職についてのお問い合わせは、米国サイトのFAQ(英語)をご覧ください。 |
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